2009年06月26日

LNGとして流通させる場合には

LNGとして流通させる場合には-162℃以下に冷却して液化してから製品として出荷する。パイプラインによる出荷では、気体のままで製品とされる[3]。
2007年12月の世界の液化天然ガスの生産設備は15ヶ国に79トレインが稼動していて、総生産設備能力は年間18,930万トンであった。2006年に世界一のLNG輸出国となったカタールでは1トレインで年間780万トンという巨大液化プラントを複数建設中である。
2006年の世界の天然ガス生産量は28,700億m3であった。

ロシア:6,120億m3
米国:5,240億m3
その他:17,340億m3
2006年の世界の天然ガス貿易量は7,480億m3であった。
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パイプライン:5,370億m3
タンカー:2,110億m3[3]
天然ガスは原油と異なり、地上で大量に貯蔵するには極低温状態のLNGとする他にはあまり良い方法が無く、LNGでは施設や冷却の維持などにコストがかかる。このため、多くの国では一度地上に取り出した天然ガスを別の地下ガス層へと再び圧入する事で地下に貯蔵する方法を採用している。欧米では600ヶ所以上存在し、日本でも数ヶ所が稼動している。地下貯蔵に使用されるガス層にはその上部がキャップロックと呼ばれる浸透性の無い緻密な地層で覆われていなければならない。冬季の需要期に備えて、夏季に貯蔵しておいたり、パイプラインの事故に備えるなどがその目的である[3]。

2009年06月10日

COPDは不可逆的な気道の破壊が生じているため

COPDは不可逆的な気道の破壊が生じているため、治癒しない。禁煙や、薬物療法・酸素療法による症状緩和を行う。また、食欲減退を起こしている場合は、早急に栄養補給が必要である。

禁煙
COPDの最大危険因子である喫煙をやめることで、COPDの進行を遅らせ、生命予後を改善する。
薬物療法
気管支拡張剤、去痰剤、鎮咳剤を使用することがある。
リハビリテーション
行動療法等による呼吸訓練や体力維持や改善
在宅酸素療法
間欠性陽圧呼吸器の使用
手術治療
肺容量減少手術 (lung volume reduction surgery; LVRS)
生体肺移植
ブレイクダンス
大気化学
ヒッチハイク
投扇興
ラクロス
ダイエット
ロデオ
フードテーマパーク
ホッケー
ルームシェア
日本の演劇
熊本の湯めぐり
食の文化
お寺案内
骨の調べ
地震のおこり
筋肉事典
湯・香川
アロマ広場
チョコレート戦争

予後 [編集]
上述の事柄からも分かると思うが、完治させるのは現状では極めて難しい為、出来うる限り進行を遅らせられるかが主目的となる。また、食欲減退による栄養不足をいかに補うかも重要なファクターの一つであると考えられ、経口栄養法や胃瘻の手術が必要になる場合もある。また、機械を使えば呼吸は楽にはなるが、使い続けると呼吸能力が低下する恐れがある為、時々は自然呼吸に切り替えた方が良いと思われる。

2009年06月07日

鎖帷子(くさりかたびら)は、鎧形式の防具の一種

鎖帷子(くさりかたびら)は、鎧形式の防具の一種。洋の東西問わず、古代から現代まで使用し続けられている。西洋の物はメイル(英: mail)と言う。日本の物は、衣服の下に着用する場合着込みという名称が使われる。

西洋においては古代のケルト人が鎖帷子を最初に考案したとされる。初期の物はリングの1つ1つが大きく作りも簡単で胸だけを覆う物だった。ケルトでは防具を身につけずに白兵戦を行う事が好まれていたいた為、どちらかと言うと彼らと戦ったローマにおいて鎖帷子は進化した。暗黒時代から中世初期になると傭兵としていたゲルマン民族の諸部族に広がり、中でもノルマン人が用いた物は兜と連結し、頭からひざ以上までを覆う丈の長い物でホウバーグと呼ばれた。十字軍の時代になると頭部の鎖帷子は切り離されコイフとなり、胴体部も金属加工技術が向上しより細かいリングを使用できたので、手やつま先まで完全に覆う物が登場した。

細く伸ばした鋼線で輪を作り、それらを互いに連結して服の形に仕立てた物である。リングを平たく叩き潰してワッシャー状にし、それらを組み合わせて作られた物や、鎖をそのまま布に縫い付けた物も存在する。
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西洋では14世紀頃までは、鉄板から打ち抜くなどして作った継ぎ目の無い輪と、鉄線から作った継ぎ目のある輪を交互に使って鎧として編んだ。編み方には幾つかの方法がある。一つの輪に隣接する幾つの輪を通すかで4 to 1、6 to 1、4 to 2などに分類される。個々の輪の開いた末端は、通常リベットでかしめた。歴史的な物では、針金をそのままドーナツ状にした物よりもこちらの方が軽くて丈夫であった。現代では、通常は木の棒に鋼線をぎっしりと長く巻き付け、コイル状にした物を棒に沿って切断することで多数の輪を一度に作る。

2009年04月24日

オーラソーマ

オーラ・ソーマ (Aura-Soma) またはオーラソーマ・カラーケアシステム (Aura-Soma Color-Care System) は、1983年、イギリスの薬剤師ヴィッキー・ウォールが創始したカラーセラピー法である。

1983年、薬剤師でありキロポジスト(足の治療にあたる専門職)であるイギリス人女性のヴィッキー・ウォール(Vicky Wall, 1918年 - 1991年)によって創始された。オーラソーマとはウォールが瞑想中にインスピレーションを得て創作した言葉であり、ラテン語で「光輝」という意味の「オーラ」 (aura) と、古代ギリシャ語で「身体」を、アラム語で「存在」を、サンスクリット語で「生きているエネルギー」という意味を持つ「ソーマ」 (soma) を組み合わせている。

オーラソーマは「ボトル」と呼ばれる色つきの液体が入った瓶を使用して行われる。これらのボトルはイギリスのオーラソーマ社が独占的に製作・販売しており、オーラソーマを行おうとする者は、オーラソーマ社の販売代理業者からボトルを購入しなければならない。

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1991年1月のヴィッキー・ウォールの没後、オーラソーマはイギリス人マイク・ブースに受け継がれ、現在はマイク・ブースを中心としイギリスに本部を置くオーラソーマ教育機関 ASIACT により普及活動、指導者養成、そして新商品の開発などが行われる。9/11テロの直後「死の天使サミエル」を象徴とした暗色のボトルを発売した例がある。日本では1995年頃から愛好者が増加した。

歴史
オーラソーマの創始者ヴィッキー・ウォールは1918年、イギリスのカバラの教師である父の7番目の子として生まれた。カバラにとって7という数字は特別な数字である。ウォールは幼い頃から超能力を持ち、人のオーラなどが見えるなど様々な特別な能力を持っていたとされる。自分の能力が特殊なものであると知った彼女は、この能力を他人のために使おうと努めた。

実母を早くになくし、継母と折り合いの悪かった彼女は16歳で家を出て薬剤師になり、その後キロポジスト(足の治療にあたる専門職)としてクリニックを開設する。しかし、信頼を寄せていた友人に全財産を奪われたり、晩年は糖尿病や腎臓病に苦しみ、突然両目を失明してしまった。そんなある日、長年習慣としてきた瞑想の最中に、突然「水を分けなさい」というメッセージが聞こえ3日間続いた。3日目の朝、ウォールは何かに導かれるように、水が2つの層に分かれた美しいボトルを創り出していた。これが今日のイクイリブリアムボトルの原型となるものである。「オーラソーマ Aura-Soma」という言葉もその時にインスピレーションから得たものとされる。

その後、何色かのボトルを創っていったが、ウォール自身、最初はそのボトルに深い意味や力があるとは考えていなかった。しかし、その美しいボトルに次第に人々が注目し始め、欲しがるようになった。彼女は、実際にそのボトルを「使った」人々から体調や精神的な調子がよくなったという話を聞くようになる。その時、ヴィッキーはその人が選ぶボトルの色がその人のオーラの色と同じであることに気が付いたという。

マイク・ブースはウォールと同じく超能力を持ち、様々な神秘学にも通じていた。最初のボトルが誕生した年にウォールと出会い、2人でオーラソーマの研究を続け、1991年のウォールの没後、オーラソーマの後継者となった。

2009年04月22日

731部隊

731部隊(ななさんいちぶたい)とは大日本帝国陸軍の関東軍防疫給水部本部の事。関東軍管轄区域内の防疫・給水業務を行うことを目的に設置された。細菌・化学戦研究の為に生体解剖などを行ったとされている。初代部隊長の石井四郎(1892年 - 1959年、陸軍軍医中将)に因んで石井部隊とも呼ばれる。

731部隊は日中戦争から太平洋戦争中にかけて発足した旧日本軍のBC戦(生物・化学兵器)研究機関「軍医学校防疫研究室」の下部組織である。

当時からその特殊性よって機密性が非常に高い組織であった事、また終戦後のアメリカ軍との取引により関係者の多くが研究成果を引き渡す事を条件に罪不問に付され、戦後医学界の中枢を構成した経緯などから情報が不足し、実態は不明のままであった。近年になり徐々に情報が発掘され、ある程度の全貌が判明してきている。

従来、731部隊は旧軍の細菌戦部隊の中核研究機関のように言われてきたがこれを誤りとする研究者も存在する。この主張によるとBC戦の研究組織の中枢は当時新宿にあった陸軍軍医学校防疫研究室(または陸軍防疫給水部、この組織は陸軍軍医学校と陸軍参謀本部の両方に指揮系統を有しており、前者による呼称が研究室、後者による呼称が防疫給水部)である。ここを中核として、当時の旧軍展開地域各所に設置された各部隊(平房の大陸本部、北京の甲1855部隊、南京の栄1644部隊、広東の波8604部隊、シンガポールの岡9420部隊など)に指令が出され、さらに国内大学医学部のバックアップの元で広大なネットワークを構成してBC戦術の組織的な研究・開発を推進していた。

731部隊はそれらの部隊中で最大級の設備を有してはいたが、その中心ではなく実験・検証施設であったにすぎない。731部隊は表向き日中戦争時の1941年に各種流行性伝染病予防と兵員用の飲料水の水質浄化を目的として、関東軍が建国した満州国のハルピンに配備された。731部隊で実施された内容は各部隊の中でも特殊なものであり、人間の生体を用いて非倫理的な実験が行われたと言われている。

陸軍参謀本部指揮下の『満州第731部隊』は関東軍防疫給水部本部を表す通称号であり、秘匿名の性格を持っていた。各支部などをまとめた関東軍防疫給水部は「満州第659部隊」と称した。  

レイアグト シアー リトル インジゴ マテハン トリプシン 万木かぶ ストロボ あんず ミング ローカル シャボン アーチ トミート スケー りゅう バーバー テンニン 対策いな パスタ 世界の橋 トレッ パレット レセル イスト トワイライ スター マカロ フォト はつとら ローン ザコン こくちょ ミシシ ミート ブーイ ディティ メルヘ ダウンタ バイフォー ゼット 発酵SEO フェムトセル 夕焼けの丘 サンテ ドリア ノーサイド タギング オミット オプシン

部隊の活動
731部隊は捕らえた多くの中国人、モンゴル人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験・生体実験に供したと言われている(「悪魔の飽食」による。この書物の真偽はここでは問わない。)。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は3000人以上とも推定されている。 毒ガス・細菌兵器等の使用は国際条約で禁止されていたが、のちに同部隊の部隊長となる石井四郎は、軍事技術研究のために欧州各国を周遊後、それらの有効性(特にそのコストパフォーマンスに関して)に注目し、帰国後に化学兵器や細菌兵器が日本にとって有用であるとし軍部に働きかけ、防疫研究室設置された。

一方、BC戦術を使用する側にとっての観点において防疫活動が重要な要素であり、一般戦術においても有用であることから、これを主に軍内部のおいての名目とし、防疫給水部の名称で組織が発足することになる。表向きの看板とは言え、防疫活動は防疫給水部の重要な研究要素であり、731部隊においても防疫活動研究班が設置され成果を挙げている(石井式濾水機は実際に部隊運用されることになる)。

終戦・米軍との取引
1945年8月、ソ連軍が満州に侵攻すると、撤収作戦が実施され731部隊はその施設のほとんどを破壊して徹底的な証拠隠滅が図られた。軍事機密を敵国に渡さない為の通常措置であるとする意見もある一方、一刻を争う、撤退戦において、徹底的な破壊が必要とされるほどの機密であった理由も論議となっている。この時収容していた捕虜は全員殺害されたとされる。

731部隊の情報を欲した米軍は、石井四郎をはじめ731部隊の幹部との間で、731部隊が行った人体実験のデータを提供する代りに731部隊を法廷で裁くことを免除したとされている。東京裁判においても731部隊の関係者は誰1人として裁かれていない。取引の際に防疫研究室の実態は隠され、施設として目立つ731部隊を囮として使う事によって防疫研の研究ネットワークの実態、そしてその成果であるBC戦術の最重要情報(これは図らずも、当時最高の医学的成果に他ならなかった)の秘匿が計られた。米軍からの追求を十分予測していた石井四郎は、予め731部隊での成果の一部を引き渡す事で研究の全貌を隠匿することに成功したと言われている。またこの対米工作には石井四郎の右腕とされた内藤良一があたったと言われる。

戦後の批判・医学会への影響
前述の撤退における資料隠滅、ならびに対米工作時の処理のため、731部隊に関する一次資料はほとんど存在していないとされていた。関係者(その多くは旧軍に所属あるいは関係していた日本人、前述の通り組織的な撤収が行われたため、満州の旧軍機関としては例外的に帰還率が高い)の証言であった。近年になって、除々に各種資料が発見され、全貌の究明が進みつつある。

中国などで公開されている731部隊とされる写真の多くは医学的に不可解な行為をしているものがみられる。これらの中には無関係な写真を無理に関連づけたいわば偽物も数多くあり、否定論の根拠とされることも多い。実際、これらの写真を掲載していた『悪魔の飽食』の出版元である光文社が指摘を認め、当該書籍を絶版としたが、該当写真を削除後、異なる出版社より復刊された(この際、内容に修正が加えられた事が論議を呼んだ)。

戦後、ペスト・コレラ・性病などの生物兵器、糜爛性・腐食性の毒ガスを用いた化学兵器の研究に携わっていた特殊部隊であったと、ロシア国内で行われたハバロフスク裁判で認定されている。この裁判についてはその真実性を否定的に見る意見がある。

石井四郎が京都大学医学部の出身であったように、731部隊をはじめとする生物化学兵器研究の研究者は、国内の最高学府を卒業した者が多かった。これらの研究者のほとんどは戦後になって大学医学部へと戻り、日本の医学会において重鎮となった為、医学会には731部隊についてタブー視する傾向が強かったが、近年になり旧幹部の引退などに伴い除々に弱まって来ている。また、薬害エイズ事件において被告となった企業ミドリ十字の創始者は石井四郎の片腕内藤良一であり、731部隊隊長を一時務めた北野政次を顧問としていた。

2009年04月05日

変声(へんせい)

変声(へんせい)とは、ヒトの発声器官の成長によって声帯振動、発声の様式が変わり声の音域や音色が変化すること。一般的に声変わり(こえがわり)とも言う。

変声、声変わりは第二次性徴と共に起こり、おおむね11?14歳ごろに経験する。男女共に見られる変化であるが男性で顕著である。女声は声域があまり変わらない(2音半、三度程度)が男声は変声を過ぎると声の高さが1オクターブ程度低くなる。従って変声後の男女の声の高さはおおむね1オクターブ弱異なることになる。

ただし、民族的、文化的な相違も見られる。これには先天的な理由によるものと後天的な理由によるものがある。また、喉仏も目立つようになる。近年の日本では女性や幼児の声が従来より低くなる傾向があり、男女間の声域の差はやや少なくなってきている。

男性であっても、目立った変声が起こらず、女性と同等の高い声域を維持することが稀にある(ソプラニスタ)。 男性は変声前に去勢を行うと変声を迎えない(カストラート)。

男声と女声の違い [編集]
男声と女声の違いは殆どが声種の違いによる物である。変声期以前は男女とも頭声主体で発声する人が大半だが、 男性の場合は第二次性徴期に声帯周辺の筋群の均衡が急変し、胸声主体の発声を強いられることになる。これが変声と呼ばれるものである。1オクターブ下がるといわれるのは頭声と胸声の音域の差である。

変声の初期において、発声者は習慣的に頭声発声をしようとするから発声は不安定なものとなり調子外れな声を出すことになる。多くの場合、これを嫌って頭声を殆ど使わない発声へ移行する。一方、変声がゆっくり進行する場合や発声者が脱調を厭わない場合などでは、頭声の要素が多く残ることがある。この場合、声変わりしたことを本人が自覚しないことがあり、女性のように高い音域を維持することが多い。また、ややノイジーな声になることも多い。

逆に女性や小児であっても胸声発声が習慣付く人も存在する。この場合は成人男性と同じような音域になる。 特に日本人は女声の胸声発声を嫌う傾向が欧米より強いようでだみ声とか悪声などと言われ敬遠されるが、最近ではむしろ好む人も増えていて価値観が多様化しているところである。

女性や小児の声が少しずつ低くなっていると言われるのは胸声発声する子供や女性が増えているために平均値が下がっていることを意味する。

変声と男性歌手 [編集]
変声後の男性の殆どが、特に高い声を出す際に独特の裏声を用いるようになる。これが(狭義の)ファルセットであり、成人男性特有とされ、独特の音色を持つ。小児や女声でこの声種を扱う人は稀(女声の裏声をファルセット呼ぶこともあるが男性のものとは異なる)で、また男性でも頭声を積極的に扱うような人はあまり出さなくなる。

変声前の男児の合唱は少年合唱と呼ばれ、声域は成人女性よりやや高く、声質に特徴がある(しばしば少年合唱に女児も加わる)。男児のソプラノは特にボーイソプラノと呼ばれるがこれは女性が教会で歌えなかったことに加え男児の方が体格も小さく高い声を発することに向いているからである。

声優 [編集]
アニメや吹き替えでは変声期前の少年役に女性声優を起用することがほとんどである。一部ではリアルさを狙って同年齢の男の子役を起用することもある。しかし、演技力が伴わないことが多く、また、長期にわたるシリーズなどでは声変わりしてしまうこともある(それを利用して、キャラクター自体の成長を演出する、といった例もある)。

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2009年03月21日

ジョイフルトレイン

ジョイフルトレイン (Joyful Train) とは、主にJRグループが団体専用列車や臨時列車(イベント列車・行楽輸送列車など)などに向けて保有している鉄道車両、あるいは列車そのもののことである。

主に団体専用列車用に使用される、外観や内装が一般の車両とは大きく異なる車両で編成されたものを指す。

内装としては以下の特徴がある。

畳を敷いた(和式車両)
サロンや宴会のできるコーナーがある。
座席などの配置が内側から窓側を向いていたりするなど特殊な配置を持つ。
和式車両やサロン車両の多くはグリーン車扱いとなっている。

JR東日本ではもう少し広く定義しており、一般営業用で外観や内装が一般の車両とは大きく異なる車両であれば、団体専用列車用でなくてもジョイフルトレインと呼称している。→JR東日本車輌図鑑ジョイフルトレイン

鉄道ファンは和式車両のことを「…座」、欧風車両のことを「…サロ」と呼称することが多い[要出典]。
約束の橋 チーム 赤ずきん リコニー エジンバラ さくもん コモドド モスリン べにえび エンジン オーリ センデ ジーピー シーアイ マンサク ジュエリー トニック チューナー マンデート シャン だいろ 一千一秒 大人の生活 スキーム エイハラ スラロー ロータリー ティズム シンボル オヤマ ファシリ センタ テラコッタ センシ ツール モチーフ ギョリュ モジュ 中仙道 ひわき ジャッカル ケミストリー ローズウッド トークン 一字千金 地上の星 キャップ リーフ マナスル オーソラ

現状 [編集]
バブル崩壊以降、小人数での旅行やバスでの旅行が主流となった現在では団体専用列車を使う機会は減り、JR各社では大人数に対応したお座敷列車や欧風列車といったジョイフルトレインは減少傾向にある。

その先駆けとなったのはJR九州で、国鉄末期から1990年代までに気動車や客車など数多く存在していたが、特急列車のグレードアップや運転方法の改善に伴い、1994年6月をもって一部を除いて全ての団体用ジョイフルトレインが廃止となった。このうち1993年8月に登場したキハ58系「しらぬい」に至っては登場から1年も経たずに廃止されている。

2000年代に入るとJR東日本では客車の老朽化や機関車の付け替え時にかかる手間を省くため、余剰となった485系を改造した電車型ジョイフルトレインが登場し、客車編成に代わって運用されている。相次ぐ客車ジョイフルトレインが廃止される中、最後まで残っていた「ゆとり」が2008年3月に廃止されたことで、JR東日本から客車編成が消滅した。JR西日本においては一部の編成が室内・外観塗装をリニューアルされた上で引き続き運用されていたが、やはり車両の老朽化や利用者の減少により、近年では相次いで廃止されている。

ジョイフルトレインの一覧 [編集]

JR北海道 [編集]
気動車
「ニセコエクスプレス」
1988年に登場したキハ183系気動車5000番台の3両編成。キハ183 5001・5002、キハ182 5001 で構成。苗穂運転所に所属。
「クリスタルエクスプレス トマム & サホロ」
1989年に登場したキハ183系気動車5100番台の4両編成。キハ183 5101・5102、キハ182 5101、キサロハ182 5101 で構成。苗穂運転所に所属。
「ノースレインボーエクスプレス」
1992年に「アルファコンチネンタルエクスプレス」の置換え用として登場したキハ183系気動車5200番台の5両編成。キハ183 5201・5202、キハ182 5201・5251、キサハ182 5201で構成しており、苗穂運転所に所属。
「お座敷車(キハ183系)」
1999年に登場したキハ183系気動車6000番台の3両編成。キハ183 6001・6101、キハ182 6001 で構成しており、札幌運転所に所属。
車両紹介も参照。
「お座敷列車(キハ400形)」
1998年に登場したキハ400形気動車500番台の3両編成。キハ400 501〜503で構成。苗穂運転所に所属。
車両紹介も参照。

JR東日本 [編集]
JR東日本が「ジョイフルトレイン」と呼称する車両について記載するため、団体専用列車用以外にも一般の臨時列車に充てられる特殊な外観や内装の車両を含む。

2009年03月06日

ヘイラー (駆逐艦)

ヘイラー (USS Hayler, DD-997) は、アメリカ海軍の駆逐艦。スプルーアンス級駆逐艦の31番艦。艦名はロバート・W・ヘイラー海軍中将に因む。

1978年度会計で議会はスプルーアンス級駆逐艦二隻の追加建造を承認したが、実際には一隻分が提供された。これらの艦はヘリコプター駆逐艦(DDH)として設計されたが、標準のスプルーアンス級の建造コストを超過することはなかった。リットン・インガルスはDDH-997の設計を完了したが、ヘリコプターの着艦デッキを後方に移動、格納庫を延長しシースパロー発射機を格納庫上部に置き換えたものであった。また、3機のSH-3 シーキングもしくは4機のSH-60 シーホークまたはSH-2 シースプライトの運用が可能であった、

DDH-997は標準的なスプルーアンス級と同程度の予算での建造が要求されたため、設計及びエンジニアリング作業が必要とした詳細項目は相当の数に上った。(キッド級ミサイル駆逐艦建造時に行われた同様の作業では1億1,080万ドルが費やされた。)

結局建造コストは大幅に増加し、この新型駆逐艦がシリーズとして建造されるとなると予算は正当化される可能性があったが、単独の艦のための予算としては認められる可能性が低く、結局海軍は他のスプルーアンス級と同じ設計でヘイラーを建造した。
イルカ カッション イナリー ヒンズー ケミカル ヤブラン おりあお パララ アリーナ テリア キンバ マキャベ フードル ハイファイ マイル けんち バルジ ビリティ ビスケ ボール オセロッ ロス ストップ マリン ローエン ランタナ ギブアウ キドニー コーヒー ヒヤシ ファクタ ジュレハ ショベルカ ライフ リック ドレス シーエム ガヤツリ レーン ケション ナラタ プレイ デパオク グロテ ハジャイ トリック シロシ ドット リナッ フィア

艦歴
ヘイラーは1980年10月20日にミシシッピ州パスカグーラのインガルス造船所で起工し、1982年3月2日に進水、1983年3月5日に就役した。

20年の現役活動後、ヘイラーは2003年8月25日にバージニア州ポーツマスのノーフォーク海軍造船所で退役した。

2004年4月6日に除籍され、2004年11月13日に標的艦として沈められた。

2009年02月14日

プリンセスうぃっちぃず

ある出来事をきっかけに主人公真樹が魔女界の騒動に巻き込まれていく「ドキドキわくわく魔女っ娘バトルアドベンチャー」。前半は主に学園でのドタバタギャグコメディな展開が主になり、後半は魔女界でのシリアスな展開が主になっている。
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本ゲームの大きな目玉に魔女っ娘バトルがある。これは炎雷水、小魔法大魔法などといったカードを組み合わせて相手を撃退するカードバトルである。カードの組み合わせなどにより得点ボーナスが付加されるのでやりこみ要素が高い。また、選択肢の選択内容によりヒロインの好感度が上昇する「ごきげん度システム」なるシステムもある。ヒロインのごきげん度を上昇させておくと前出のバトルパートにおいてヒロインの必殺技の発動確率が高くなる。

物語は節目節目で一話ごとに区切られる。各話の間にCMのように登場人物がそれぞれ寸劇をしたりする。

真樹たちが住む人間の世界のほかに、クルルたち魔女が住む魔女界が存在する。魔女界は人間も、また男性もいない。常に光に溢れ、夜が来ないなど闇がまったくない世界である。また子は全て世界樹から授けられ、その数は一人だけである。

魔女界に伝わるお伽噺によると『その昔、人間界と魔女界は一つであった頃、ソルという光の女王と、オルという闇の女王がいた。二人は人間に恋をしたが、オルは恋に破れ、気を狂わしたオルは人間や魔女を大勢虐殺してしまった。心を痛めたソルはオルを殺し、再びこのようなことが起こらないよう人間界と魔女界を切り離し、闇を封印した』とある。これの真偽は定かではないが、これが魔女界が光だけに包まれている現実の根底をなしていると考えられている。またその影響か、魔女界の魔女たちは闇を、そして闇を狂わせた人間もまた同様に悪ととらえている。

ここでいう「魔法」とは、魔女界にいる炎・水・雷それぞれの精霊に呼びかけ、その力を行使するものである。

御堂真樹(みどう・まさき) (声優:PCゲーム氷河流:ドラマCD3緑川光)
本作の主人公。ヒーローを目指し、日夜努力を重ねている。「英雄の誓い」なる信条を持っている。祖父から与えられた「備前岡崎同田貫越前上長船五郎正国村正宗」(強そうな刀の名前を全てつけて真樹が命名。通称「正宗」)という錆び付いた日本刀を、自分が英雄になるための鍵と信じており、常に持ち歩いている。クルルが告白を受け入れるまで数多くの女の子に告白して振られ続けていた(委員長は返事をしていなかった)。
クルル(クルシェンヌ・ルーセル) (声優:PCゲーム・ドラマCD1・2大波こなみ:ドラマCD3幡宮かのこ)
ヒロインの一人で扱いはメイン級。人間界で暴れてるマジモンをやっつけるためにやって来た、魔女界のプリンセス。あるアクシデントが元で主人公に魔力を奪われしまい、行動を共にすることになる。お気楽で天然でちょっぴりわがまま、と子供っぽさが残る。基本的に頭が悪く学業は苦手だが、それ以外のことなら何でもこなす。 使い魔はミケ。おバカだけど、本当はすごい力の持ち主。主人公の告白をあっさり受け入れて主人公の連続告白失敗記録をストップさせた。エッチな事にも興味津々。
委員長(いいんちょう) (声優:PCゲーム・ドラマCD1・2手塚まき:ドラマCD3生天目仁美)
ヒロインの一人で扱いはメイン級。主人公のクラスメイト。本名は不明(一説によると名字は山田らしい。作中から推測できる。)。生まれに秘密がある。委員長と呼ばれているが実は生徒会書記。また、生徒会以外に手品同好会・クロスワード部・美術部・剣道部・手話クラブなど数多くの部活を掛け持ちしている。委員長らしく、夜の外出などには口うるさく注意するが、自分自身にはかなり甘く、寮内では禁止されているペットをこっそり飼っていたり、他の生徒から没収した雑誌類を自分で読んでいる。児童施設で育っているため貧乏だがそのような境遇を上回る貧乏性の持ち主である。使い魔はハムチュウ。オープニングムービーでも名前は「委員長」。実は主人公に告白された時に返事をしておらず、彼に好意を持っている。クルル同様エッチな事に興味津々。
雀宮林檎(すずみや・りんご) (声優:PCゲーム・ドラマCD1・2朝宮咲:ドラマCD3神田理江)
ヒロインの一人。主人公の幼馴染であり、雀宮神社の巫女(見習い)。4人のヒロインの中で一番の常識人である。主人公に「この馬鹿ペ○ス」などと罵ったりローキックをくらわせたりしていて手が出て足が出て口が出る。ツンデレではなくツッコミ強気系である。だがそれは主人公に対する想いを素直に表せないだけ。巫女なのにお化けが苦手。水泳部に所属していると思いきや実は水球部所属。使い魔はキチえもん。人間的にはまともで家事にも長けている。
春日かれん(かすが・かれん) (声優:PCゲーム・ドラマCD1・2北都南:ドラマCD3ひと美)
ヒロインの一人。突然学校に転校してきた謎の転校生。あんドーナッツなどの甘いものが大好きで、常人なら食べられないような極甘料理も平気で食べることが出来る。右手に使い魔のベルナルドを装着している。最初はそっけない態度をとっているが、物語が進行していくにつれて徐々に変わっていき、魔女ッ子バトルの音声にも表れる。あんドーナツがあればとっても幸せ。カマトトであり毒舌家。上記の「プリンセスうぃっちぃず スーパーアペンドCD」にかれんのシナリオ「かれんはじめてのおかいもの」が収録されている。彼女のEDは全ヒロイン中唯一IF扱いとなっている。(この事に不満の声もあった)ヒロイン中唯一本編で最後まで主人公との肉体関係が進展していない(IFでは最後まで進展するのだが)。真実編で、かれんは本物の魔女ではなく、メイヴィスに作られたホムンクルスであることが判明する(元は普通に世界樹から授けられた子であったが、未熟児であったため早くに命を落としてしまっていた)。なので魔道具を使わなければ魔法を使えない。

サブキャラクター
リリアン先生 (声優:PCゲーム・ドラマCD1・2友里杏:ドラマCD3こやまきみこ)
コロッケの食べ過ぎで入院した中津先生の代わりに学園にやってきた非常勤講師。やる事成す事が空回りしてはいるが、一生懸命な先生ではある。美術の先生としてやって来たが、まともに授業を出来たことはほとんどなかった。美術室で夜な夜な何かを作っていたりする非常に素性の怪しいキャラクターである。攻略不可である事が惜しまれたキャラの一人。
リリアン・チロル
魔女っ娘委員会にの前に立ちはだかる自称「極悪魔女」。理想の「悪」となるため日々(些細な)悪事を繰り返す。魔法生命体であるマジモンを操り魔女っ娘委員会に戦いを挑んでくる。魔女としての能力は相当なものであるが天性の間の悪さから殆ど失敗に終わる。誰がどう見てもリリアン先生と同一人物であるが、本人を含め誰一人としてその事にはツッこまない。
雀宮一恋(すずみや・いちご) (声優:PCゲーム・ドラマCD1・2友里杏:ドラマCD3こやまきみこ)
林檎の妹。パティシエなにゃんこからのゲストキャラクター。常に巫女装束で登場する。装束の袖には何故か色々な物が入っている。攻略不可である事が惜しまれたキャラの一人。
ミケ(声優:大波こなみ)
クルルの使い魔である雄の三毛猫。本名は「ミケーレ・デ・ラウレンティス」という仰々しい名前だが、結局のところ三毛猫だからミケらしい。クルルのお目付役でもあり常々クルルを説教しているが、そのたびにクルルの八つ当たりを受け縦横斜めに伸ばされたりするので苦労が絶えない。本人自身は高貴なイメージを持っているようだが、その行動や品性は猫そのものである。マジモン・ミケに変身させられたあげく練習台にされた事もある。
ハムチュウ(声優:手塚まき)
委員長の使い魔である雄のロボロフスキーハムスター。可愛いらしい外見に似合わず極めて破廉恥な性格をしており、契約の条件にとんでもない事を要求した。その後も魔女っ娘委員会のメンバーに幾度となくセクハラを繰り返す。様々な地方の方言を使いこなす。
キチえもん(声優:朝宮咲)
林檎の使い魔であるペンギン。のんびりした性格でとても従順。以前は一恋のペットであった。元はお祭りの射的の景品だったらしい。
ベルナルド(声優:北都南)
かれんの使い魔で赤ちゃんドラゴンのぬいぐるみ(パペット)。かれんの心の声の代弁者。鳴き声は可愛いらしいが口調はかなり乱暴。口から炎を吐き強力な歯で噛みつく。
シンシア・ルーセル(声優:杉沢結花)
魔女界を治める光の女王。クルルの母親でもある。柔らかく包み込むような雰囲気の女性だが、非常におっとりした性格で重要な会話中でも立ったまま寝てしまうほどである。
なお魔女界の女王は世襲制ではなく、八賢女と呼ばれる優れた能力を持つ魔女の中から選出されるようである。よってプライベートではセシリア達とは友人のような関係で接している。
セシリア・ミューズリー(声優:木村あやか)
クルルの教育係を勤めている魔女。八賢女の一人。体術に魔力を込める独特の戦闘スタイルを持つ。さっぱりした性格だが間が抜けているところもある。
メイヴィス・ウィンスレット(声優:三咲里奈)
魔女界の中心から遠く離れた辺境の地でひっそりと暮らす魔女。かれんの母親。かつては賢女の一人であり女王に次ぐ力を持つと言われていたが、かれんを蘇らせるために禁忌である闇の呪文を使用したことにより中央より追放されている。
古の魔法や錬金術、更に戦闘技術の知識が豊富。料理好きだが致命的に下手。リリアンの師匠でもある。
チョコリエール(声優:友里杏)
リリアンの使い魔兼ペットの雄の黒豚。リリアンとはペットと主人の間を超えた絆で結ばれているらしい。ウィンスレット家の料理番。
アスナ(声優:なかやまめぐみ)
真樹の持つ「正宗」の本来の形である「アスラーナ」が擬人化した姿。幼女のような姿をしているが口調は古風。太古の昔魔女界が人間界との接点を持ったために起きた悲劇の生き証人であり、その悲劇を二度と繰り返さないために真樹達に力を託す。悲劇の闇の女王オルの力が秘められていて、それを使い時を戻すことができる(真実編も英雄編も、すべて正義編の終了後にアスナが時を戻した第二・第三の正義編といってもよい)。

2009年01月28日

辺境の特殊事例としてほとんど黙殺された

日本軍
第3軍 - 司令官:乃木希典大将、参謀長:伊地知幸介少将
第1師団(東京) - 師団長:松村務本中将
歩兵第1旅団(歩兵第1、第15連隊)、歩兵第2旅団(歩兵第2、第3連隊)、騎兵第1連隊、野戦砲兵第1連隊、工兵第1連隊
第9師団(金沢) - 師団長:大島久直中将
歩兵第6旅団(歩兵第7、第35連隊)、歩兵第18旅団(歩兵第19、第36連隊)、騎兵第9連隊、野戦砲兵第9連隊、工兵第9連隊
第11師団(善通寺) - 師団長:土屋光春中将
歩兵第10旅団(歩兵第22、第44連隊)、歩兵第22旅団(歩兵第12、第43連隊)、騎兵第11連隊、野戦砲兵第11連隊、工兵第11連隊
(1904/11?)第7師団(旭川) - 師団長:大迫尚敏中将
歩兵第13旅団(歩兵第25、第26連隊)、歩兵第14旅団(歩兵第27、第28連隊)、騎兵第7連隊、野戦砲兵第7連隊、工兵第7連隊
後備歩兵第1旅団
後備歩兵第1、第15、第16連隊
後備歩兵第4旅団
後備歩兵第8、第9、第38連隊
野戦砲兵第2旅団
野戦砲兵第16、第17、第18連隊
攻城砲兵司令部
野戦重砲兵連隊、徒歩砲兵第1、第2、第3連隊、徒歩砲兵第1独立大隊
アビランド ケイソ グズア 月の宿 トラム 太鼓判 バロイ ガリウム ジョーカー スーパー プチブ ダムウェ フット チルドレン シーズン ポインセ キッチン メンチ ナラティブ 河童大王 アービト キャリア カララー ダブルシン ガッツ カフス ビジョン デバイ マスゲ シェード ナル 華麗 プロジェト スタート スタンド ハノー リアリ スヌーピ アオザイ フォトメ ビンバ シネコン スローガン ライン センナ ハイマツ アコード フォカマイ スコア ケブキ

ロシア軍
ロシア関東軍司令官:アナトーリイ・ステッセリ中将
旅順要塞司令官:コンスタンチン・スミルノフ中将
東シベリア狙撃兵第4師団 - 師団長:アレクサンドル・フォーク少将
東シベリア狙撃兵第13、第14、第15、第16連隊、東シベリア砲兵第4旅団
東シベリア狙撃兵第7師団 - 師団長:ロマン・コンドラチェンコ少将、(1904/12?)ナディン少将
東シベリア狙撃兵第25、第26、第27、第28連隊、東シベリア砲兵第7大隊
東シベリア狙撃兵第5連隊
要塞砲兵隊

旅順攻囲戦に関する論点
203高地
203高地から見た防戦中の旅順港
1904年12月14日
同2006年1月
日本軍の二十八糎砲203高地は、旅順攻囲戦において重要な鍵を握る場所だったとされる。旅順要塞外から旅順港内のロシア艦艇を砲撃する場合の観測所として203高地が最適な場所であることがその理由とされ、203高地が攻略されたことで旅順艦隊は砲撃によって壊滅し、旅順要塞も存在意義を失って降伏したという考えである。203高地の攻略を陸軍に進言したのは海軍の秋山真之少佐だったといわれる[1]が、詳細は明らかではない。山本権兵衛・山県有朋らの大本営も203高地に執着[2]していた(開戦後の1904年6月に現地総司令部として満州軍総司令部が設置されたが、大本営からも指令が出され続けたため、陸軍の指揮系統が錯綜していた)。

他方、観測所設置は203高地以外でも可能であったとする説も多くの論者に支持されている。第1回総攻撃以前の7月30日に日本軍が占領した大孤山でも着弾観測は可能であり、実際に大孤山を観測所とする砲撃に耐えかねたために、旅順艦隊は旅順港を出て黄海海戦に至った事から、こちらが正当な見方といえる。乃木の第3軍が所属する満州軍総司令部も最後まで203高地攻撃には徹底して反対[3]した。

12月6日の203高地占領から1月1日の要塞降伏までは1か月弱が開いており、203高地の占領それ自体がロシア軍降伏の主要因とは言えない。要塞自体の降伏は、ロシア軍が予備兵力を消耗し切ったことにより戦線を支えられなくなったためといわれる。この点で203高地は、ロシア軍の他の陣地から距離があるため、予備兵力の消耗を誘う上では最適の戦場であった[4]。しかし、現実には要塞司令官ステッセルは戦力に十分な余力がありながら[5]降伏までに相当の期間があった事で、203高地の戦略的価値の軽重を量ることは妥当ではない。そもそも203高地攻略の目的は、あくまで「旅順艦隊の殲滅」であり「要塞の陥落」ではない。

第1回総攻撃では第3軍は203高地を主目標とはしなかった(大本営からの指令も、海軍からの進言・要請もなかった)。しかしロシア軍は3線からなる縦深性防御陣地を構築しており、このとき仮に203高地を攻撃・占領できたとしていても、十字砲火を受けこれを維持することは困難であったろうといわれる。事実、第2回総攻撃でも1度は203高地を占拠したが奪い返されているし、第3回総攻撃では壮烈な争奪戦の結果7回も奪い返されている[6]。さらに、2月6日の日露開戦当初から陸軍の旅順参戦を拒み続けた海軍は、7月12日に海軍軍令部長から参謀総長に対して旅順参戦を申し入れ、7月31日の満州軍総司令部宛の大本営通達で陸軍にもようやく旅順参戦の指令があり、乃木第3軍の第1回総攻撃が8月19日と遅れた。開戦後の要塞攻略戦着手までの期間が長すぎたために要塞側に準備期間を与えることになった事は、旅順難戦の大きな要因である。

このあたりが旅順攻囲戦における乃木軍司令部の評価を分かれさせているところである。もしも、第1回総攻撃で203高地を主目標とし、第3次攻撃で行ったような攻撃方法を最初から実施していたら、1回の攻撃としてはより多くの損害を受けていたと指摘されている。しかし、第2回総攻撃以降にロシア軍が行った203高地の要塞化・増兵による被害拡大はなかったし、戦略目的(旅順艦隊殲滅)を果たした後は急いて無理攻めをする必要もなくなる。 第一回総攻撃で203高地に兵力を密集させた場合、より多くの将卒が機関銃の前に斃れたであろうとの指摘がある。また、旅順艦隊を殲滅しても、要塞を攻略できなければ、第三軍が北上するのは難しく、やはり正攻法による要塞攻略を行ったと思われる。

旅順攻略については、各論として陸軍、特に乃木第3軍の分析が多いが、海軍の失敗を陸軍が挽回したというのが総論として近年定着している。

乃木希典
旅順攻囲戦で日本軍が膨大な[7]戦死者を出したのは第3軍司令官乃木希典と参謀長伊地知幸介の無為無策が原因であるとされる。この説は、日露戦争中からたびたび新聞等にも取り上げられ、広く世間の知るところであったが、やがて乃木がその徳行から偉人として認識されるようになり、また、旧陸軍の精神論を語る上で重要な存在となったこともあり、乃木に対する非難は次第に語られなくなった。

司馬のものを含め明治当時から現代にいたる乃木無能論の主な根拠は以下の通りである。

単純な正面攻撃を繰り返したといわれること。[8]
兵力の逐次投入、分散という禁忌を繰り返したこと。[9]
総攻撃の情報がロシア側に漏れていて、常に万全の迎撃を許したこと。[10]
旅順攻略の目的は、ロシア旅順艦隊を陸上からの砲撃で壊滅させることであったにも関わらず、要塞本体の攻略に固執し、無駄な損害を出したこと。[11]
初期の段階ではロシア軍は203高地の重要性を認識しておらず防備は比較的手薄であった。他の拠点に比べて簡単に占領できたにもかかわらず、兵力を集中させず[12]、ロシア軍が203高地の重要性を認識し要塞化したため、多数の死傷者を出したこと。
旅順を視察という名目で訪れた児玉源太郎が現場指揮を取り、目標を203高地に変更し、作戦変更を行ったところ、4日後に203高地の奪取に成功したと伝えられること。
戦後、乃木自身がみずからの不手際を認めるがごとき態度を取ったこと。
一方で、乃木を擁護する意見も根強い。要塞構築に長じるロシアが旅順要塞を本格的な近代要塞として構築していたのに対して、日本軍には近代要塞攻略のマニュアルはなく、急遽、欧州から教本を取り寄せ翻訳していた。旅順要塞を甘く見ていたのは第3軍だけではなく大本営も満州軍も海軍も同様である。日露開戦以来陸軍の旅順参戦をさせず、ようやく7月に第3軍に対して第1回総攻撃を急遽しかも早期に実施するよう指示したほか、弾薬の備蓄量を日清戦争を基準に計算したため、第3軍のみならず全軍で慢性的な火力不足、特に砲弾不足に悩まされていた[13]。

第3軍は第1回総攻撃は横隊突撃戦術を用い大損害を被ったが、第2回総攻撃以降は塹壕には塹壕で対抗する、という正攻法に作戦を変更している。日本軍の損害のみが大きかったのは第1回総攻撃だけであり、第2回・第3回総攻撃での日本軍の損害はロシア軍と同等もしくは少数である[14]。また、戦車も偵察機も存在しなかったこの時代は防御側が有利であり、要塞攻略に人的損害が伴うのは避けられない。実際、第一次世界大戦の塹壕戦で各国の軍隊が受けた損害[15]と比較すれば、旅順攻囲戦の損害は軽いともいえる。

第3軍では多くの死傷者を出したにもかかわらず、最後まで指揮の乱れや士気の低下が見られなかったという[16]。また乃木がみずから失策を悔やみ、それに対する非難を甘受したことは、乃木の徳といってよいだろう。

司馬の指摘では、乃木や第3軍参謀士官について、その軍事的能力以前に、旅順要塞が堅牢な要塞であることを、認識する前にもした後にも要塞についてほとんど何も学ばなかったことを挙げている。白襷隊[17]の惨戦のような明らかな誤断もあり、評価が一定しない一因となっている。

さらに、陸軍としての第3軍を指揮した乃木の能力云々のほかに、ぎりぎりまで陸軍の旅順参戦を拒み続け、陸海軍の共同和合を軽視無視した海軍の方針、乃木第3軍参戦(第1回総攻撃)までの旅順攻略における海軍の作戦失敗の連続[18]といった、海軍の不手際[19]も無視できない。また、日露開戦後に現地陸軍の総司令部として設置された満州軍の方針と、大本営の方針が異なり、それぞれが乃木第3軍に指令通達を出していたという軍令上の構造的な問題にも乃木は悩まされた。

児玉源太郎
旅順攻囲戦においては児玉源太郎満州軍総参謀長の功績が語られることが多い。日本軍が203高地を攻略したのは児玉が旅順に到着した4日後であった。これを、児玉の功績によってわずか4日間で攻略されたとみるか、既に数次に渡る第3軍の攻撃でロシア軍は疲弊しきっていた[20]点や、乃木第3軍の試行錯誤を経た後だった点などから児玉の功績や関与をどの程度と評価するかは、見方が分かれるところであろう。また、日露開戦当初から7月まで陸軍の旅順参戦を頑なに拒んだ海軍の意向を、現地陸軍の総司令部機関である満州軍総参謀長としての立場にも関わらず妥協して受け入れたという負の評価も存在する。

『坂の上の雲』では、第3回総攻撃に際し、児玉は大山巌の訓令を受けて乃木から第3軍の指揮権を委譲させ、自ら作戦を指揮したと著述されている。第3軍は、児玉源太郎が来る前に203高地を主目標とする方針に転換していたが、第3回総攻撃の大胆な攻城砲起用など、なんらかの形で児玉の関与があったとする見方が根強い。もっとも機関銃が本格的に大量使用された陸戦史上初の攻防であったことから、毎分500連発のマキシム機関銃の前に乃木も児玉も有効な対応策が無かったという冷静な見方も少なくない。

東郷平八郎
乃木と共に日露戦争後に英雄化・神格化された東郷平八郎については、日本海海戦の輝かしい戦果の影響からか、旅順攻囲戦における分析および評価が、乃木に比して圧倒的に少ない。日露開戦直後の対地砲撃作戦敗退、3回に及ぶ港口閉塞作戦失敗、敗退ではないが詰めが甘く失敗と評される黄海海戦、海軍の作戦全般を指揮した東郷平八郎も旅順攻囲戦においては目立った戦績はない。陸軍の乃木の評価と共に、旅順攻囲戦での海軍の東郷の評価も必要という声も少なからず存在[21]する。また評価はどうあれ、旅順要塞に乃木(陸軍)も東郷(海軍)も苦しめられたことは史実として残る。

逸話
ロシア軍の敗因として、ビタミンC不足が原因の壊血病による戦意喪失が一因として挙げられている。旅順要塞内の備蓄食料には大豆などの穀物類が多く、野菜類は少なかった。大豆を水に漬けて発芽させればビタミン豊富なもやしができるが、ロシアにはもやしを作って食べる習慣が無かった。ロシア軍に一人でも栄養学の知識が豊富な人物がいれば、もやしを作って食べることにより、兵士はさらに健闘しただろうと言われるが、ビタミンCが発見されたのは1920年であり、さらに、もやしにビタミンが含まれていることが発見されるのはもっと後の時代であり、後知恵にすぎない。一方、日本陸軍はビタミンB1欠乏による脚気によって、全軍で患者25万人、死者2万人余を出してこちらも苦しんでいた。これについては軍医部長だった森林太郎(森鴎外)の責任が大きいのは有名である(高木兼寛の食事改善策を採用した海軍の脚気患者はわずか87名)[22]。いずれにしても病人軍隊という意味では旅順の日露双方は同様であった。
与謝野晶子は、旅順包囲軍の中に在る弟籌三郎を嘆く内容の『君死にたまふことなかれ』を1904年9月に『明星』で発表した。しかし実際には弟は第4師団所属であり、旅順攻囲戦には参加していない。

^ 十一月二十七日、…(省略)…コノ際思切ツテ二〇三高地ニ向ヒ全力ヲココニ専注セラルルコト至極必要ト在候 (海軍軍令部編纂『極秘・明治37、38年海戦史』中の書簡)
^ 11月14日御前会議において203高地奪取の御裁可を得た旨を満州軍に対し伝達。11月19日乃木宛親書で203高地占領を要請。11月22日203高地占領を望む勅語を乃木に対し伝達。
^ 満州軍総参謀長の児玉源太郎も、満州軍作戦部長の松川敏胤も強く反対した。
^ 別宮暖朗『「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦―乃木司令部は無能ではなかった』
^ 降伏時、兵員1万人、砲弾8万発、銃弾200万発が残っていたとする資料があり、他の資料も概ねこの前後の数を差している。スミノルフ中将、ゴルバトフスキー少将ら首脳陣の多くが徹底抗戦を主張したが、ステッセルはほぼ独断で降服を決定したため、戦後厳しく糾弾された(大江志乃夫「世界史としての日露戦争」ほか)。降服したことを理由に軍法会議で死刑を宣告されている。
^ もちろん、より多くの火力・兵力を203高地に集中させれば攻防回数はより少かっただろう。
^ 膨大とはいえ、児玉源太郎が指揮した奉天会戦の死傷者に比べれば圧倒的に少ないのだが。
^ 上級指令部の指令による第1次総攻撃が失敗した後は、乃木は塹壕戦を活用する正攻法を主戦法に切り替えたことが『機密日露戦史』に記載がある。しかし、そもそも大量の機関砲(毎分500発のマキシム機関銃)を装備した要塞に対して白兵戦を挑むこと自体尋常でない。大本営も、この時点では西方からの強襲策をとるという程度の認識しか持っていなかった(『機密日露戦史』)が、第1次総攻撃の損害に愕然とした。また、白襷隊の特攻にみられるよう、第2回総攻撃以後も正面攻撃・強襲を続けており、特に第3回総攻撃時の正面攻撃については大本営も「既に鉄壁下に二万余人を埋めて見れば、何とか攻撃の方法を考えそうなものである」(機密・二一六)とあからさまな疑問を投げかけた。しかし、一方で煙台(満州)総司令部は第三軍の方針に概ね賛同していたことが11月9日の電報から読みとれる。現地軍と大本営の間の意見相違が窺われる。(『機密日露戦史』)。
^ 特に痛恨だったのは、第2回総攻撃において203高地の一部を制圧した時で、この時、「1個師団ほどの戦力を注入していれば、203高地は陥落した」とする説も多い。しかし、乃木司令部は援軍を小出しに送っては機関砲の標的となり、やがて撤退した。この後、以前から203高地を危惧していたステッセルが、203高地の防御力を強化し、世界陸戦史に残る損害を産んだ203高地攻防戦に至った。第2回総攻撃において、第3軍が203高地を重点攻撃目標としていたという説が疑問視されるのはこのためで、攻撃目標の一つにしていたのは間違いないが、重要性をどの程度認識していたかは疑問が残る。
^ 『機密日露戦史』では、この件に対する大本営への応答で、機材の準備期間が丁度1ヶ月に当たる点、南山の攻略日が26日だったこと、偶数で割り切れることを兵卒は喜ぶことを理由に挙げている。攻撃日が予測される可能性については、抑も要塞は常に準備して用心しているため、他の日に変えても不意を突くことはできないと述べている。ロシア側もなぜか1ヶ月おきに総攻撃が仕掛けられることを知っており、例えばステッセルは「20日頃から偵察を出せば、必ず大攻勢の動きを確認できた。」と述べている。これは、当時の物資補充では大規模な攻勢に出ると、弾薬などの補充が一か月ほどかかったことも理由である(宝島社『激闘!日露戦争』)。
^ もっとも当初、大本営から第三軍に与えられた目的は「旅順要塞を速やかに攻略すること」(『日露陸戦新史』)であった。しかし、のちに大本営が203高地の重要性を認識し、目標転換を求めたにもかかわらず、その手当てが不十分すぎたため、参謀次長・長岡外史は第7師団(大迫尚敏師団長)を第3軍に充てる条件として、203高地へ主攻変更するよう要求したほどであった。一方、後年の陸大における検討で、大本営の下命方針に不手際があったことも指摘されている(『機密日露戦史』)。第3軍参謀の中でも不満が相次ぎ、第2回総攻撃前の9月5日参謀長会議においては、第1師団参謀長・星野金吾大佐から「攻撃の目的は要塞の奪取ではなく、港内のロシア艦隊の壊滅のはずである。」と戦略方針を再確認する発言があった。(司馬遼太郎『坂の上の雲』、波多野勝『井口省吾伝』ほか)。
^ これについては要塞司令官のスミルノフも「日本軍が何故203高地に攻撃重点を指向しないのか、包囲された当時からいつも疑問に思っていた。」と述懐している。(I・I・ロストーノフ『ソ連から見た日露戦争』)
^ 大本営は「先ず旅順を攻略し、雨期前には鳳凰城の線に進出する」というようなことを述べており、旅順要塞の防御力を実際より軽視しており、攻城準備を省略して、西方から奇襲して陥落させるという方針であった。一方で乃木は大本営参謀に対し「攻城計画の順序を省略し、奇策を用い又は力攻を勉むる如きは全局の利害に鑑み、責任を以て決行するを得ず」と述べ、攻城準備を行った上で第1回総攻撃を行ったが、おびただしい死傷者を出す結果となった。(『日露陸戦新史』、『機密日露戦史』)。
^ 203高地攻防戦を第3回総攻撃に含めると、第3回がもっとも死傷者が多い。
^ 無論、戦車や火炎放射機の出現など、要塞や塹壕を突破するための技術が躍進した第一次世界大戦と単純比較できないのは言うまでもない。
^ 現場では第1回総攻撃後、自傷兵(自らを傷つけて戦線を退こうとする兵)が多発し、第2回総攻撃前の9月25日付けで自傷兵を後方へ送還することを一事見合わせるよう通達が出ている。(鶴田禎次郎『日露戦役従軍日誌』)
^ 前述。中村覚少将率いる志願兵3105人よりなる奇襲部隊。保塁を奪取した後、旅順市街に突入するという荒唐無稽な作戦をもって突撃したが、直ちに発見され1時間でほぼ壊滅。中村少将も重傷を負って後送された。この作戦が実施された背景については諸説あるが、いずれにしても乃木は承認した。(司馬遼太郎『坂の上の雲』ほか)
^ 2月9日対地砲撃敗退、2月24日第1回港口閉塞作戦失敗、3月27日第2回港口閉塞作戦失敗、5月3日第3回港口閉塞作戦失敗
^ 旅順における陸軍参戦を海軍は頑なに拒んだ。(島貫重節『戦略日露戦争』ほか)日露開戦前年にようやく軍令機関として陸軍と海軍が並列対等となったことも影響していると見る向きも多い。
^ ロシア軍の疲弊度については見方が別れる。戦力としては203高地陥落時にもなお2万の兵士が健在で銃弾・砲弾も豊富にあった。一方で、野菜が不足しはじめたため壊血病がまん延し、士気が低下したことも確かである。
^ 壊滅させた敵艦についても、海軍の東郷よりも陸軍の乃木の方が質的にも量的にも勝っていた(佐藤晃『太平洋に消えた勝機』)という評価も存在する。
^ ただし森林太郎は肉や野菜の十分に補給するように提言しており、それが実行できれば結果として脚気の患者は出なかったはずであるが、日本にそれだけの兵站能力は無く実行不可能である。高木兼寛の麦飯食は、ビタミンなどを補給できる副食が十分に無いことが常態化していた以上、主食のみでビタミンB1を摂取する方法が唯一実現可能であった。