日本軍
第3軍 - 司令官:乃木希典大将、参謀長:伊地知幸介少将
第1師団(東京) - 師団長:松村務本中将
歩兵第1旅団(歩兵第1、第15連隊)、歩兵第2旅団(歩兵第2、第3連隊)、騎兵第1連隊、野戦砲兵第1連隊、工兵第1連隊
第9師団(金沢) - 師団長:大島久直中将
歩兵第6旅団(歩兵第7、第35連隊)、歩兵第18旅団(歩兵第19、第36連隊)、騎兵第9連隊、野戦砲兵第9連隊、工兵第9連隊
第11師団(善通寺) - 師団長:土屋光春中将
歩兵第10旅団(歩兵第22、第44連隊)、歩兵第22旅団(歩兵第12、第43連隊)、騎兵第11連隊、野戦砲兵第11連隊、工兵第11連隊
(1904/11?)第7師団(旭川) - 師団長:大迫尚敏中将
歩兵第13旅団(歩兵第25、第26連隊)、歩兵第14旅団(歩兵第27、第28連隊)、騎兵第7連隊、野戦砲兵第7連隊、工兵第7連隊
後備歩兵第1旅団
後備歩兵第1、第15、第16連隊
後備歩兵第4旅団
後備歩兵第8、第9、第38連隊
野戦砲兵第2旅団
野戦砲兵第16、第17、第18連隊
攻城砲兵司令部
野戦重砲兵連隊、徒歩砲兵第1、第2、第3連隊、徒歩砲兵第1独立大隊
アビランド ケイソ グズア 月の宿 トラム 太鼓判 バロイ ガリウム ジョーカー スーパー プチブ ダムウェ フット チルドレン シーズン ポインセ キッチン メンチ ナラティブ 河童大王 アービト キャリア カララー ダブルシン ガッツ カフス ビジョン デバイ マスゲ シェード ナル 華麗 プロジェト スタート スタンド ハノー リアリ スヌーピ アオザイ フォトメ ビンバ シネコン スローガン ライン センナ ハイマツ アコード フォカマイ スコア ケブキ
ロシア軍
ロシア関東軍司令官:アナトーリイ・ステッセリ中将
旅順要塞司令官:コンスタンチン・スミルノフ中将
東シベリア狙撃兵第4師団 - 師団長:アレクサンドル・フォーク少将
東シベリア狙撃兵第13、第14、第15、第16連隊、東シベリア砲兵第4旅団
東シベリア狙撃兵第7師団 - 師団長:ロマン・コンドラチェンコ少将、(1904/12?)ナディン少将
東シベリア狙撃兵第25、第26、第27、第28連隊、東シベリア砲兵第7大隊
東シベリア狙撃兵第5連隊
要塞砲兵隊
旅順攻囲戦に関する論点
203高地
203高地から見た防戦中の旅順港
1904年12月14日
同2006年1月
日本軍の二十八糎砲203高地は、旅順攻囲戦において重要な鍵を握る場所だったとされる。旅順要塞外から旅順港内のロシア艦艇を砲撃する場合の観測所として203高地が最適な場所であることがその理由とされ、203高地が攻略されたことで旅順艦隊は砲撃によって壊滅し、旅順要塞も存在意義を失って降伏したという考えである。203高地の攻略を陸軍に進言したのは海軍の秋山真之少佐だったといわれる[1]が、詳細は明らかではない。山本権兵衛・山県有朋らの大本営も203高地に執着[2]していた(開戦後の1904年6月に現地総司令部として満州軍総司令部が設置されたが、大本営からも指令が出され続けたため、陸軍の指揮系統が錯綜していた)。
他方、観測所設置は203高地以外でも可能であったとする説も多くの論者に支持されている。第1回総攻撃以前の7月30日に日本軍が占領した大孤山でも着弾観測は可能であり、実際に大孤山を観測所とする砲撃に耐えかねたために、旅順艦隊は旅順港を出て黄海海戦に至った事から、こちらが正当な見方といえる。乃木の第3軍が所属する満州軍総司令部も最後まで203高地攻撃には徹底して反対[3]した。
12月6日の203高地占領から1月1日の要塞降伏までは1か月弱が開いており、203高地の占領それ自体がロシア軍降伏の主要因とは言えない。要塞自体の降伏は、ロシア軍が予備兵力を消耗し切ったことにより戦線を支えられなくなったためといわれる。この点で203高地は、ロシア軍の他の陣地から距離があるため、予備兵力の消耗を誘う上では最適の戦場であった[4]。しかし、現実には要塞司令官ステッセルは戦力に十分な余力がありながら[5]降伏までに相当の期間があった事で、203高地の戦略的価値の軽重を量ることは妥当ではない。そもそも203高地攻略の目的は、あくまで「旅順艦隊の殲滅」であり「要塞の陥落」ではない。
第1回総攻撃では第3軍は203高地を主目標とはしなかった(大本営からの指令も、海軍からの進言・要請もなかった)。しかしロシア軍は3線からなる縦深性防御陣地を構築しており、このとき仮に203高地を攻撃・占領できたとしていても、十字砲火を受けこれを維持することは困難であったろうといわれる。事実、第2回総攻撃でも1度は203高地を占拠したが奪い返されているし、第3回総攻撃では壮烈な争奪戦の結果7回も奪い返されている[6]。さらに、2月6日の日露開戦当初から陸軍の旅順参戦を拒み続けた海軍は、7月12日に海軍軍令部長から参謀総長に対して旅順参戦を申し入れ、7月31日の満州軍総司令部宛の大本営通達で陸軍にもようやく旅順参戦の指令があり、乃木第3軍の第1回総攻撃が8月19日と遅れた。開戦後の要塞攻略戦着手までの期間が長すぎたために要塞側に準備期間を与えることになった事は、旅順難戦の大きな要因である。
このあたりが旅順攻囲戦における乃木軍司令部の評価を分かれさせているところである。もしも、第1回総攻撃で203高地を主目標とし、第3次攻撃で行ったような攻撃方法を最初から実施していたら、1回の攻撃としてはより多くの損害を受けていたと指摘されている。しかし、第2回総攻撃以降にロシア軍が行った203高地の要塞化・増兵による被害拡大はなかったし、戦略目的(旅順艦隊殲滅)を果たした後は急いて無理攻めをする必要もなくなる。 第一回総攻撃で203高地に兵力を密集させた場合、より多くの将卒が機関銃の前に斃れたであろうとの指摘がある。また、旅順艦隊を殲滅しても、要塞を攻略できなければ、第三軍が北上するのは難しく、やはり正攻法による要塞攻略を行ったと思われる。
旅順攻略については、各論として陸軍、特に乃木第3軍の分析が多いが、海軍の失敗を陸軍が挽回したというのが総論として近年定着している。
乃木希典
旅順攻囲戦で日本軍が膨大な[7]戦死者を出したのは第3軍司令官乃木希典と参謀長伊地知幸介の無為無策が原因であるとされる。この説は、日露戦争中からたびたび新聞等にも取り上げられ、広く世間の知るところであったが、やがて乃木がその徳行から偉人として認識されるようになり、また、旧陸軍の精神論を語る上で重要な存在となったこともあり、乃木に対する非難は次第に語られなくなった。
司馬のものを含め明治当時から現代にいたる乃木無能論の主な根拠は以下の通りである。
単純な正面攻撃を繰り返したといわれること。[8]
兵力の逐次投入、分散という禁忌を繰り返したこと。[9]
総攻撃の情報がロシア側に漏れていて、常に万全の迎撃を許したこと。[10]
旅順攻略の目的は、ロシア旅順艦隊を陸上からの砲撃で壊滅させることであったにも関わらず、要塞本体の攻略に固執し、無駄な損害を出したこと。[11]
初期の段階ではロシア軍は203高地の重要性を認識しておらず防備は比較的手薄であった。他の拠点に比べて簡単に占領できたにもかかわらず、兵力を集中させず[12]、ロシア軍が203高地の重要性を認識し要塞化したため、多数の死傷者を出したこと。
旅順を視察という名目で訪れた児玉源太郎が現場指揮を取り、目標を203高地に変更し、作戦変更を行ったところ、4日後に203高地の奪取に成功したと伝えられること。
戦後、乃木自身がみずからの不手際を認めるがごとき態度を取ったこと。
一方で、乃木を擁護する意見も根強い。要塞構築に長じるロシアが旅順要塞を本格的な近代要塞として構築していたのに対して、日本軍には近代要塞攻略のマニュアルはなく、急遽、欧州から教本を取り寄せ翻訳していた。旅順要塞を甘く見ていたのは第3軍だけではなく大本営も満州軍も海軍も同様である。日露開戦以来陸軍の旅順参戦をさせず、ようやく7月に第3軍に対して第1回総攻撃を急遽しかも早期に実施するよう指示したほか、弾薬の備蓄量を日清戦争を基準に計算したため、第3軍のみならず全軍で慢性的な火力不足、特に砲弾不足に悩まされていた[13]。
第3軍は第1回総攻撃は横隊突撃戦術を用い大損害を被ったが、第2回総攻撃以降は塹壕には塹壕で対抗する、という正攻法に作戦を変更している。日本軍の損害のみが大きかったのは第1回総攻撃だけであり、第2回・第3回総攻撃での日本軍の損害はロシア軍と同等もしくは少数である[14]。また、戦車も偵察機も存在しなかったこの時代は防御側が有利であり、要塞攻略に人的損害が伴うのは避けられない。実際、第一次世界大戦の塹壕戦で各国の軍隊が受けた損害[15]と比較すれば、旅順攻囲戦の損害は軽いともいえる。
第3軍では多くの死傷者を出したにもかかわらず、最後まで指揮の乱れや士気の低下が見られなかったという[16]。また乃木がみずから失策を悔やみ、それに対する非難を甘受したことは、乃木の徳といってよいだろう。
司馬の指摘では、乃木や第3軍参謀士官について、その軍事的能力以前に、旅順要塞が堅牢な要塞であることを、認識する前にもした後にも要塞についてほとんど何も学ばなかったことを挙げている。白襷隊[17]の惨戦のような明らかな誤断もあり、評価が一定しない一因となっている。
さらに、陸軍としての第3軍を指揮した乃木の能力云々のほかに、ぎりぎりまで陸軍の旅順参戦を拒み続け、陸海軍の共同和合を軽視無視した海軍の方針、乃木第3軍参戦(第1回総攻撃)までの旅順攻略における海軍の作戦失敗の連続[18]といった、海軍の不手際[19]も無視できない。また、日露開戦後に現地陸軍の総司令部として設置された満州軍の方針と、大本営の方針が異なり、それぞれが乃木第3軍に指令通達を出していたという軍令上の構造的な問題にも乃木は悩まされた。
児玉源太郎
旅順攻囲戦においては児玉源太郎満州軍総参謀長の功績が語られることが多い。日本軍が203高地を攻略したのは児玉が旅順に到着した4日後であった。これを、児玉の功績によってわずか4日間で攻略されたとみるか、既に数次に渡る第3軍の攻撃でロシア軍は疲弊しきっていた[20]点や、乃木第3軍の試行錯誤を経た後だった点などから児玉の功績や関与をどの程度と評価するかは、見方が分かれるところであろう。また、日露開戦当初から7月まで陸軍の旅順参戦を頑なに拒んだ海軍の意向を、現地陸軍の総司令部機関である満州軍総参謀長としての立場にも関わらず妥協して受け入れたという負の評価も存在する。
『坂の上の雲』では、第3回総攻撃に際し、児玉は大山巌の訓令を受けて乃木から第3軍の指揮権を委譲させ、自ら作戦を指揮したと著述されている。第3軍は、児玉源太郎が来る前に203高地を主目標とする方針に転換していたが、第3回総攻撃の大胆な攻城砲起用など、なんらかの形で児玉の関与があったとする見方が根強い。もっとも機関銃が本格的に大量使用された陸戦史上初の攻防であったことから、毎分500連発のマキシム機関銃の前に乃木も児玉も有効な対応策が無かったという冷静な見方も少なくない。
東郷平八郎
乃木と共に日露戦争後に英雄化・神格化された東郷平八郎については、日本海海戦の輝かしい戦果の影響からか、旅順攻囲戦における分析および評価が、乃木に比して圧倒的に少ない。日露開戦直後の対地砲撃作戦敗退、3回に及ぶ港口閉塞作戦失敗、敗退ではないが詰めが甘く失敗と評される黄海海戦、海軍の作戦全般を指揮した東郷平八郎も旅順攻囲戦においては目立った戦績はない。陸軍の乃木の評価と共に、旅順攻囲戦での海軍の東郷の評価も必要という声も少なからず存在[21]する。また評価はどうあれ、旅順要塞に乃木(陸軍)も東郷(海軍)も苦しめられたことは史実として残る。
逸話
ロシア軍の敗因として、ビタミンC不足が原因の壊血病による戦意喪失が一因として挙げられている。旅順要塞内の備蓄食料には大豆などの穀物類が多く、野菜類は少なかった。大豆を水に漬けて発芽させればビタミン豊富なもやしができるが、ロシアにはもやしを作って食べる習慣が無かった。ロシア軍に一人でも栄養学の知識が豊富な人物がいれば、もやしを作って食べることにより、兵士はさらに健闘しただろうと言われるが、ビタミンCが発見されたのは1920年であり、さらに、もやしにビタミンが含まれていることが発見されるのはもっと後の時代であり、後知恵にすぎない。一方、日本陸軍はビタミンB1欠乏による脚気によって、全軍で患者25万人、死者2万人余を出してこちらも苦しんでいた。これについては軍医部長だった森林太郎(森鴎外)の責任が大きいのは有名である(高木兼寛の食事改善策を採用した海軍の脚気患者はわずか87名)[22]。いずれにしても病人軍隊という意味では旅順の日露双方は同様であった。
与謝野晶子は、旅順包囲軍の中に在る弟籌三郎を嘆く内容の『君死にたまふことなかれ』を1904年9月に『明星』で発表した。しかし実際には弟は第4師団所属であり、旅順攻囲戦には参加していない。
^ 十一月二十七日、…(省略)…コノ際思切ツテ二〇三高地ニ向ヒ全力ヲココニ専注セラルルコト至極必要ト在候 (海軍軍令部編纂『極秘・明治37、38年海戦史』中の書簡)
^ 11月14日御前会議において203高地奪取の御裁可を得た旨を満州軍に対し伝達。11月19日乃木宛親書で203高地占領を要請。11月22日203高地占領を望む勅語を乃木に対し伝達。
^ 満州軍総参謀長の児玉源太郎も、満州軍作戦部長の松川敏胤も強く反対した。
^ 別宮暖朗『「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦―乃木司令部は無能ではなかった』
^ 降伏時、兵員1万人、砲弾8万発、銃弾200万発が残っていたとする資料があり、他の資料も概ねこの前後の数を差している。スミノルフ中将、ゴルバトフスキー少将ら首脳陣の多くが徹底抗戦を主張したが、ステッセルはほぼ独断で降服を決定したため、戦後厳しく糾弾された(大江志乃夫「世界史としての日露戦争」ほか)。降服したことを理由に軍法会議で死刑を宣告されている。
^ もちろん、より多くの火力・兵力を203高地に集中させれば攻防回数はより少かっただろう。
^ 膨大とはいえ、児玉源太郎が指揮した奉天会戦の死傷者に比べれば圧倒的に少ないのだが。
^ 上級指令部の指令による第1次総攻撃が失敗した後は、乃木は塹壕戦を活用する正攻法を主戦法に切り替えたことが『機密日露戦史』に記載がある。しかし、そもそも大量の機関砲(毎分500発のマキシム機関銃)を装備した要塞に対して白兵戦を挑むこと自体尋常でない。大本営も、この時点では西方からの強襲策をとるという程度の認識しか持っていなかった(『機密日露戦史』)が、第1次総攻撃の損害に愕然とした。また、白襷隊の特攻にみられるよう、第2回総攻撃以後も正面攻撃・強襲を続けており、特に第3回総攻撃時の正面攻撃については大本営も「既に鉄壁下に二万余人を埋めて見れば、何とか攻撃の方法を考えそうなものである」(機密・二一六)とあからさまな疑問を投げかけた。しかし、一方で煙台(満州)総司令部は第三軍の方針に概ね賛同していたことが11月9日の電報から読みとれる。現地軍と大本営の間の意見相違が窺われる。(『機密日露戦史』)。
^ 特に痛恨だったのは、第2回総攻撃において203高地の一部を制圧した時で、この時、「1個師団ほどの戦力を注入していれば、203高地は陥落した」とする説も多い。しかし、乃木司令部は援軍を小出しに送っては機関砲の標的となり、やがて撤退した。この後、以前から203高地を危惧していたステッセルが、203高地の防御力を強化し、世界陸戦史に残る損害を産んだ203高地攻防戦に至った。第2回総攻撃において、第3軍が203高地を重点攻撃目標としていたという説が疑問視されるのはこのためで、攻撃目標の一つにしていたのは間違いないが、重要性をどの程度認識していたかは疑問が残る。
^ 『機密日露戦史』では、この件に対する大本営への応答で、機材の準備期間が丁度1ヶ月に当たる点、南山の攻略日が26日だったこと、偶数で割り切れることを兵卒は喜ぶことを理由に挙げている。攻撃日が予測される可能性については、抑も要塞は常に準備して用心しているため、他の日に変えても不意を突くことはできないと述べている。ロシア側もなぜか1ヶ月おきに総攻撃が仕掛けられることを知っており、例えばステッセルは「20日頃から偵察を出せば、必ず大攻勢の動きを確認できた。」と述べている。これは、当時の物資補充では大規模な攻勢に出ると、弾薬などの補充が一か月ほどかかったことも理由である(宝島社『激闘!日露戦争』)。
^ もっとも当初、大本営から第三軍に与えられた目的は「旅順要塞を速やかに攻略すること」(『日露陸戦新史』)であった。しかし、のちに大本営が203高地の重要性を認識し、目標転換を求めたにもかかわらず、その手当てが不十分すぎたため、参謀次長・長岡外史は第7師団(大迫尚敏師団長)を第3軍に充てる条件として、203高地へ主攻変更するよう要求したほどであった。一方、後年の陸大における検討で、大本営の下命方針に不手際があったことも指摘されている(『機密日露戦史』)。第3軍参謀の中でも不満が相次ぎ、第2回総攻撃前の9月5日参謀長会議においては、第1師団参謀長・星野金吾大佐から「攻撃の目的は要塞の奪取ではなく、港内のロシア艦隊の壊滅のはずである。」と戦略方針を再確認する発言があった。(司馬遼太郎『坂の上の雲』、波多野勝『井口省吾伝』ほか)。
^ これについては要塞司令官のスミルノフも「日本軍が何故203高地に攻撃重点を指向しないのか、包囲された当時からいつも疑問に思っていた。」と述懐している。(I・I・ロストーノフ『ソ連から見た日露戦争』)
^ 大本営は「先ず旅順を攻略し、雨期前には鳳凰城の線に進出する」というようなことを述べており、旅順要塞の防御力を実際より軽視しており、攻城準備を省略して、西方から奇襲して陥落させるという方針であった。一方で乃木は大本営参謀に対し「攻城計画の順序を省略し、奇策を用い又は力攻を勉むる如きは全局の利害に鑑み、責任を以て決行するを得ず」と述べ、攻城準備を行った上で第1回総攻撃を行ったが、おびただしい死傷者を出す結果となった。(『日露陸戦新史』、『機密日露戦史』)。
^ 203高地攻防戦を第3回総攻撃に含めると、第3回がもっとも死傷者が多い。
^ 無論、戦車や火炎放射機の出現など、要塞や塹壕を突破するための技術が躍進した第一次世界大戦と単純比較できないのは言うまでもない。
^ 現場では第1回総攻撃後、自傷兵(自らを傷つけて戦線を退こうとする兵)が多発し、第2回総攻撃前の9月25日付けで自傷兵を後方へ送還することを一事見合わせるよう通達が出ている。(鶴田禎次郎『日露戦役従軍日誌』)
^ 前述。中村覚少将率いる志願兵3105人よりなる奇襲部隊。保塁を奪取した後、旅順市街に突入するという荒唐無稽な作戦をもって突撃したが、直ちに発見され1時間でほぼ壊滅。中村少将も重傷を負って後送された。この作戦が実施された背景については諸説あるが、いずれにしても乃木は承認した。(司馬遼太郎『坂の上の雲』ほか)
^ 2月9日対地砲撃敗退、2月24日第1回港口閉塞作戦失敗、3月27日第2回港口閉塞作戦失敗、5月3日第3回港口閉塞作戦失敗
^ 旅順における陸軍参戦を海軍は頑なに拒んだ。(島貫重節『戦略日露戦争』ほか)日露開戦前年にようやく軍令機関として陸軍と海軍が並列対等となったことも影響していると見る向きも多い。
^ ロシア軍の疲弊度については見方が別れる。戦力としては203高地陥落時にもなお2万の兵士が健在で銃弾・砲弾も豊富にあった。一方で、野菜が不足しはじめたため壊血病がまん延し、士気が低下したことも確かである。
^ 壊滅させた敵艦についても、海軍の東郷よりも陸軍の乃木の方が質的にも量的にも勝っていた(佐藤晃『太平洋に消えた勝機』)という評価も存在する。
^ ただし森林太郎は肉や野菜の十分に補給するように提言しており、それが実行できれば結果として脚気の患者は出なかったはずであるが、日本にそれだけの兵站能力は無く実行不可能である。高木兼寛の麦飯食は、ビタミンなどを補給できる副食が十分に無いことが常態化していた以上、主食のみでビタミンB1を摂取する方法が唯一実現可能であった。